【映画】27年間の投獄、「マンデラの名もなき看守」を見た感想とネタバレ。

こんにちは。ツムリです。

アパルトヘイトに関わる実際の話を元に映画化した作品「マンデラの名もなき看守」を見ました。

1990年2月11日。世界が注目したマンデラの釈放までの27年間の投獄生活を、看守の視点から描いた作品で、マンデラ本人が映画化を許可した初めての作品。

マンデラの名もなき看守

あらすじ

この話の主人公はマンデラではなく、刑務官のジェームズ・グレゴリー(ジョセフ・ファインズ)ですが、マンデラの27年間の投獄に深く関わった人物として取り上げられています。

そして、このジェームズ・グレゴリーが書いた手記「さようなら、バファナ」がこの映画の原作になっています。

ジェームズ・グレゴリーはコサ語を話せるということで、ネルソン・マンデラ(デニス・ヘイスバート)の監視をするという任務に就き、刑務所のあるロベン島に赴任することになる。

妻は、出世が近いことを感じ喜んでいた。

投獄されたマンデラに触れ、グレゴリーは少しづつ自分が変わっていくのを感じていた。

始めは、マンデラが死刑になることは当たり前に考えていたはずなのに。

マンデラの息子が交通事故で亡くなった知らせを受け、グレゴリーは上司に、伝えた時の反応を見るように指示されていたが、コサ語でお悔やみを伝えたところ、マンデラと友好的な会話が出来た。

マンデラは、『自由憲章』(The Freedom CHARTER)の意義を、正々堂々、グレゴリーに説いた。

グレゴリーは一般の人間では見ることが出来ない『自由憲章』を確認するため、犯罪すれすれの行為をし、内容を確認する。

ある日、釈放間近のアフリカ民族会議のメンバーにコサ語で秘密の指令の葉書が届き、グレゴリーは上司に報告する。

泳がされたそのメンバーは、南アフリカ国軍の襲撃で戦死したことを知り、グレゴリーは罪悪感にさいなまれる。

グレゴリーはマンデラから妻への贈り物のチョコレートを秘密裏に渡したことが新聞報道され、職場や同じ白人から白い目で見られるようになる。

そんな中退職を希望するが、コサ語を話せることが重宝され、退職は認められなかった。

南アフリカ当局は、グレゴリーにマンデラの移送先のボルスムーア刑務所にてマンデラ番としての『任務』を願い彼はこれを承諾する。

1980年代に入ると、アパルトヘイトの反感が強まりはじめ、南アフリカ政府はマンデラへの待遇を変え始めた。

1988年には、マンデラがビクター・バースター刑務所に移り、グレゴリーも転任する。

そこではマンデラも刑務所内で広い屋敷が割り当てられるなど自由を与えられ、アフリカ周辺諸国の高官と会談するまでになる。

そして、1990年2月11日。世界中が注目したマンデラ釈放。

見どころ

ジェームズ・グレゴリーの葛藤

最初は、マンデラは死刑になってしかるべきだと考えていたグレゴリーですが、マンデラの考えや、自身が背負っているもの、自由の為に払っている犠牲に対して少しづつ考えを改めていく。

何より、マンデラの思想にある平等な世界に憧れを抱きつつあった。

自分の立場や家族、国や思想の中でどうすることが正解か分からずにいた為、幾度となくマンデラに質問を投げかけてしまい、ついには、禁制品である「自由憲章」の閲覧にまで踏み切ってしまう。

グレゴリーはとてもピュアな人なんだろうなと思う。

何かおかしいなと思うとそれが気になってしまうような人で、仕事とは言え、自分が流した情報で人が亡くなった可能性を考えて悩んでしまったり、心を許し始めたマンデラに対し、南アフリカ国軍司令部前での一般人を巻き込んだテロを非難したりと人間らしい一面を見せる。

ネルソン・マンデラの意志

1994年南アフリカ初の全人種が参加した選挙にて大統領に就任。

後に、ノーベル平和賞、ユネスコ平和賞、レーニン平和賞など、様々な功績を称えられるマンデラの1964年から27年間の獄中の物語。

手記が南アフリカ当局の刑務官のものの為、おそらく黒人目線で感じたものとの差異はあるんだろうなとは思うけど、それでもマンデラの意志の強さは伺えた。

所属していたアフリカ民族会議は、設立から40年以上非暴力を貫いていたが、アフリカ政府の非常事態宣言後、非合法化し、マンデラは軍事組織を立ち上げるまでになる。

その後、国家反逆罪で逮捕されてからの話ではあるんですが、壮絶ですね。

こんな背景があるからこそ、どこにいても、どのシーンでも、基本的にマンデラの印象は変わらなくて、常に何かをその身に背負っている感じがして、少し怖かった。

時代背景

なぜ、そもそもこうなってしまったのかって気になり始めて、色々と調べていってもとっかかりが見えないこの問題。

アパルトヘイトという言葉が出てくる以前にも、労働や居住、生活で様々な差別的法律が出来上がり、反発を抑え込むような法律も瞬く間に出来上がっていったようです。

そもそも、

声高にもとめても、勝手に作られた法律を盾に否応なく従わされて、そんなものうまくいくワケはないけど、1948年に法として確立されてから1994年の撤廃までは、まさに暗黒時代だっただろうし、なんなら今でもきっと根付いている問題だろうなとは想像がつく。

ビレ・アウグスト監督のインタビュー

マンデラの名もなき看守

「ネルソン・マンデラが偉大な指導者であることは誰だって知っている。アパルトヘイト(人種隔離政策)が終わった時、彼がいなければ南アフリカ共和国は内戦に陥っていただろう。むしろ、私が描きたかったのは彼の人間的な魅力だ」――ビレ・アウグスト監督

https://www.fsight.jp/4161

マンデラに手紙を送ることから始めた今回の映画の中で、マンデラの弁護士から承諾と「リアリティを尊重してほしい」との伝言を受け、深くリサーチをしたビレ・アウグスト監督。

アパルトヘイトというシステムがある独裁的な社会を、流血騒ぎや内戦を起こすことなく民主化に導いた彼の仕事は傑作です。無知と傲慢によって多くの紛争が引き起こされる現在こそ、マンデラのような人の必要性を強く感じます

https://eiga.com/news/20080516/10/

まとめ

映画の本質が本質だけに悪い癖がでてしまい、今回の記事は頭でっかちになってしまったように思います。笑

それでも、単純に面白い映画でしたし、完全中立とはいかないでしょうが、当時どんなことがあり、マンデラの釈放にどれだけの意味があったのか理解できる映画でした。

組織の中で、反対や意義を唱えることは簡単なことではないですが、筋が通っているものは長い年月がかかったとしても、認められるんだなと勇気が湧いてきます。

「生まれたところや、皮膚や目の色で、いったいこの僕の何が分かるというのだろう」ブルーハーツの好きな一節ですが、この言葉に共感できる人は、当時よりも今、そして、今よりも先の未来の方が増えていくと思います。

世界中の人が、そうだよね!と思えたなら、争いは今よりずっと少なくなるでしょうね。

それではまた。

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