最終章 「桜の約束」
桜の花びらが風に乗ってベランダでころころ転がっている。
可愛げもあるが、大量に集まってくると雨の日に排水口の掃除をする羽目になる。
窓際に置いてある白いラックは近くのホームセンターで買ってきたものだ。
白い木が組み合わさっただけのもので、ドライバー1つで簡単に組み上がるし意外としっかりしてるしオシャレに見える。
少なくとも僕はそう思っているのだがさくらは苦笑いだった。
物が少ない部屋が好きなのにどうしてまたそんなもの買ってくるかなぁ。
とはじめはぶつぶつと言っていたのに今ではさくらのものの方が多い。
下から2番目の段はもはや彼女のものしかない。
鏡に化粧品や香水、ドライヤー。
お風呂上がりには棚の前に座り込んでペタペタ、パタパタ、ゴーゴー、と寝る準備。
朝起きた後にも、ペタペタ、パタパタ、サッサッ、と出かける準備。
大活躍じゃないかと僕は勝手に得意げになっていた。
一番上の段には2人の写真が置いてある。
あの日の串焼き屋。
2人がフレームの中で赤い顔をして笑っている。
少しピントがボケた馬鹿笑いしている写真と笑顔が綺麗に撮れた写真。
あの日から色んなことを考えて、大事にしたいものが出来て、暮らし始めたこの日々にこんなにも幸せを感じてる。
離したくない。守りたい。
写真の中の2人を指でなぞりながらそんなことを考えていた。
バタン。
さくらが帰ってきた。
今日は随分と早いな、まだ外は随分明るい。
思えば日が随分と長くなったもんだな。
今日こそ話をしよう。
今の気持ちを改めて伝えよう。
「ただいまー。」
「おかえりー。今日はどうだった?」
「あー、疲れた。お風呂はーいろ。」
「そっか、ごゆっくり。」
ゆっくり話でもしたかったが、疲れているなら、先にお風呂で汗を流すのもいいだろう。
出てきてからでも遅くない。
僕らの時間はたっぷりとあるはずだ。
なんでもいいから話がしたいな。
浴室へ向かうさくらの背中を眺めていた。
沢山の一瞬が集まって「今」になり、その積み重ねが明日の僕らを作るのなら、その一歩一歩の過ごし方で自分の思い描く未来を作ることがそれほど難しくないように思えた。
後悔はたくさんあるだろう。
あのときああしておけば良かった、こうしておけば良かった。
そんなことを思うことはたくさんあるだろう。
それでいいんだ。
どっちに転んだって、もう片方に憧れる心はついてまわる。
でも、わからないから、やってみるしかない。
それだけのこと。
話そう、伝えよう。思いを。
少しして浴室へ向かったさくらが思いつめた顔でリビングに戻ってきた。
髪をおろして何かを決意したようだった。
「颯、あのね」
「うん?」
「覚えてる?海に行きたい。ってダダをこねた私にちょっと待ってろ!ってレンタカー借りてきてくれたこと。
あたしは、海ならどこでもよかったんだけど、車で3時間以上かけてあんなに綺麗な海に連れてってくれるなんて思ってもなかった。」
「あー、あったね。思いきって行こうと思ったんだ。さくらの喜ぶ顔が見たかったしね。3時間も車走らせるとさすがに綺麗だったね。」
「遊園地には何度も行ったね。絶叫系がダメだって行ってた割には何度も何度も乗ったね。お化け屋敷には一度も入らなかったけど。」
「そうだね。なんだ意外と楽しいじゃんって思ったもん。始めの恐怖を煽る感じが苦手なだけだったんだなーって気がついた。あのカタカタとレールをゆっくり登っていく感覚がね。お化け屋敷は絶対入らないから!」
「あの一面のヒマワリ畑はもう二度と忘れられない。流星群を見に行ったこともそう。意外と神社も好きだよね。」
「あの景色は格別だったね。僕らは自然のものが好きなんだなーって思えた。でも、イルミネーションも綺麗で良かったなぁ。」
ひとしきり思い出を紡ぎあった後さくらは少し俯いて、唇を噛んだ。
「さくら?」
「颯、あなたに会えてよかった。」
「こちらこそ、本当に会えてよかった。」
「これからもずっとあなたを忘れない。忘れられないよ。」
そう言いながら、床にへたり込んださくらにあわててかけよった。
腕を取り抱き上げようと伸ばした手は、さくらをすり抜けた。
「え…?」
何が起きた?
何が起きてる?
立ち尽くしたまま自分の手を見つめる。
よく見ると僕の手のひら越しにさくらが見えた。
「なんで、こんなことに、、」
さくらは肩を震わせている。
うずくまっているさくらの奥にある白いラックに沢山の封筒が見えた。
いつからあったのか思い出せないが、開かれたものや封の切られてないものもある。
どうやら同じ人からの手紙のようだ。
頭の中が真っ白になりそちらにフラフラと向かう。
一番上にあった手紙には、たくさんの謝罪の後にこう書かれていた。
「僕の命は古谷さんに頂いたものです。」
差出人は田中茂と書かれている。
…誰だろう?そう考えたところであのときの映像がフラッシュバックし始めた。
あのとき、警察に電話をかけた直後に走り始めた男に向かって、女の人が叫んでいたのは確か、
「大丈夫だから!ねぇ!落ち着いて!」
「茂!茂ってば!」
そうだ。
きっとあの男だ。
古谷さんに…頂いた…?
……。
そう…だったんだ。
僕はさくらの前に座り込んだ。
「あの日から僕の時間は動いていなかったんだね。君が僕と話をしない理由も、毎日しっかりと戸締りをして出て行く理由もようやくわかった。
さくら。君の未来を抱きしめてあげられなくてごめん。ずっと一緒にいるって約束もダメになっちゃったね。今まで本当にありがとう。」
手を差し伸べても届かない。
もちろん僕の声だってこの部屋をさまようだけだった。
たくさんの思い出と本当に純粋なこの気持ちに包まれた僕は幸せだった。
でも、もちろん同じくらい申し訳なさでいっぱいだ。
だけど、下を向かない。
下を向いてしまうと、自分やさくらも否定してしまうことになりそうだから。
何よりこの溢れ出した涙を止められなくなる。
さくらは声をあげて泣きじゃくっていた。
「…わかってる。颯はもう笑うことも泣くこともないし、もうどこにもいない…」
「もっと一緒に美味しいもの食べたかった…!」
「もっと一緒に色んな所に行きたかった…!」
「もっと一緒に笑いたかった…!」
「ケンカもしたかった…!」
「もっと触れたかった!触れてほしかった…!」
「ありがとう!颯!……」
「あたし大丈夫だから、きっと。明日かららまたちゃんと笑えるように頑張るから!颯に心配かけたりしないよ。約束するから!」
さくらの泣き声がいつまでも響いている。
自分の感情に気持ちが追いついてそれを受け止めるようにさくらは泣き続けた。
そばに立っていた僕は静かに目を閉じた。
一筋の涙が頬をつたい、流線型を描いていく。
涙が顎から床に滴り落ちると同時に身体がふわりと浮かび上がった。
そしてそのまま窓を抜けて空へ出た。
窓の外には優しい風が吹いている。
暖かで穏やかな。
今年も役目を終えた桜の花びらがふわふわと風に包まれて舞っている。
それはとても楽しそうに見えた。
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